昭和五十六年八月十日 朝の御理解


御理解第六十五節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に悪いはないと思え」


 人間が人間らしゅう生きる手立。その人間らしゅう生きる手立の中に、今日の御理解の中にありますように、日柄の方位のと、例えば申しますような迷信にしばられますと、人間が人間らしゅう生きられない。言うならば、自由無碍の世界に住められる人間が、自分から窮屈にしていくと言う、一つの迷妄打破と申しましょうか、そういう人間の迷いを打ち破って下さる。そして、人間が人間らしゅう生きる生き方を、教祖は説いておられると思うですね。理屈をつけますと、いろんな理屈が出けまして、それが一つの系統だてられますと学問にさえなってくる。ね。いわゆる思索から生まれた宗教があります。言うなら、哲学宗教とでも言いましょうかね、ただおかげさえ頂けばよい、奇跡を見せてもらえばそれでよいと。それが仏様又神様だというような宗教もありますね。だから、それでは人間が人間らしゅう、いやそれを言うならば、人間の生き方を窮屈にしてしまうだけのものであります。その点教祖の神様の、いうなら教というか信心というのはすばらしいと、こう思います。
 先達って、研修の時でしたけど、よく学院で学院生同志のいろんな討論会のようなものがある。そん時に、天地金乃神様が人間だけではないね、それこそ生きとし生きるもの総てを、神様の御神愛の中にあり、お育て頂いておるのである人間だって、牛馬だって、いや虫けら一匹だって神様の御恩恵の中にあるものを、人間がむざむざ殺したり、それを食べてしまったり、金光教の信心に、いわば天地の親神様からの見地に立ったら、間違ってるのじゃないかと。成程、理屈を言うとそういうこつが生まれてくるんですよね。
或る宗教では、いうなら絶対牛は食べない。豚は食べない。お酒は飲んじゃいけない。まあそういうような、さまざまな険しい戒律のある宗教も沢山ございます。ね。例えば、仏教なんかを本当に極めようとすると、妻帯すらも許されない。ね。そういう言うならば、事では人間が人間らしゅう助かっていく事が出けません。ね。というて、なら人間が人間らしゅう生きるとは、ならどういう事かとまあ言う事になるのですが。
合楽では、そこの所を細やかに説くわけですね。人間が人間らしゅう生きる総ての事に、総ての物に御の字を御事柄として頂いたり、御物として頂いたり。例えば、食物一つであっても人間の命の為に作り与え給うものであるという見地に立ったらね、魚もよし、牛でも豚でもいいという。人間の命の為に作り与え、そんな理不尽な教えがあるもんか、天地の親神様の御恩恵の中に生きとるなら、牛馬でも同じじゃないかというふうに極めてまいりますと、牛は食べてはならん、豚は食べてはならんと言ったような論理も生まれてくるのかもしれませんね。
 先達っての御理解の中にも頂きますように、氏子あっての信心神徳と教えておられますね。これは上滝総一郎君が頂いた教えの最後ん所です。ね。氏子あっての信心であり氏子あっての神徳だと。それから、なら神様の御恩恵を受けておる総ての、例えば動食物でもですね、神様の教えを頂く事も、又それを道を求めていく事も、ならこれが幸になれる御神徳だと言うても、御神徳を与えるわけにも受けるわけにもいかんのが、人間以外の総ての動食物だと思うですね。人間はその気になると信心を頂く事も出ければ、その信心がだんだん高級化してまいりますと、言うなら御神徳を受ける事が出ける。願わくば、人間総氏子が信心しておかげを受けてくれよと、御神徳を受けてくれよとね。和賀心時代喜び、いわゆる歓天喜地。歓びの天、喜びの地。そういう喜びの世界にしてくれよという願いが天地の親神様の願い。それをかけられておるのは、人間氏子だけなのね。他のものにはそういう願いをかけるわけにはいかんのである。ですから、頂きますという心あらば、なら私共は酒は飲んじゃならん。牛馬は生くさけは取っちゃならんという事はないのです。
 日田の高野さんという食料品の奥さんが頂いたというように、私の方のお店はね、合楽理念の実験実証の店と看板が出しちゃる。だから合楽理念に基づいて、もうそれこそ、もう両隣のような所に大きなス-パ-のようなものが出けた説きに、もうとても私の方あたりが中にはさまれて、立ち行くはずが無いから止めるというてお願いに来たのが十年も前の事でしょうか。その時分に、まあだ合楽理念という事は言ってませんでしたけれども、神様のおかげ、あんた方じゃなからにゃ出けんと言う商いをしなさいというて、まあ継続させて頂いて益々、繁昌のおかげを頂いておるというお店です。
そして合楽理念発表されるや早速、合楽理念に基づく、合楽理念に基づいたお店として皆さんから、まあ可愛いがって頂いとる。お客さんからね、ス-パーマーケットを通りこえて、やっぱ来て頂くお客さんがだんだん増えて来た。ね。或る時に奥さんがそのお店に行ったら、乾物がもの言いかけてくる感じだと。それこそ、心の耳をそまさせて頂くと、筒丁を変えてくれと言う。乾物が。どうしてと心ん中にその思うと、値段が高かっては売れない。自分達はね。安くしてもらうと、いわゆる人間のが安いと買って行って、人間から食べていってもらう事が出来る。それが自分達の本望だという意味の事を言ったと言うお届けがありました。もし、やっぱり乾物に命があるならば、そういう事を考えておるのじゃないでしょうか。
いつまあっでん高いから店ざらしになっとるよりも、安く売って、一日でも早う人間の食べ物にならせて頂く事がなら、動植物全部がです、野菜だって又は、牛馬肉類だってお魚だって、人間に食べされる事が本望であり、願いであるというような話があります。ね。ですから、人間が頂くという事によって、例えばなら、今日は日柄とか方位とか言ったような事だってそうなんです。ね。人間が人間らしゅう、言うならば事柄でも、だから御事柄として受ける。物であっても御物として、お野菜一切でもお肉一切でも御物として、しかも食べ物であるならば、私共の命の為に与えて下さるものとして、感謝していく頂き方。これは食べ物だけの事じゃありません。すべての事がみんなそうなんです。けれども言うなら、大酒大食は絶食の元になるぞというような御教えもありますから。はあ人間が人間らしゅう、飲み放題、仕放題という事ではないのです。そこにはきちっとした、言うなら釘を打ってありますね。
有難く頂けるという事ならばね、まあ言うならば、どういう事をしてもという事にも、言うなら大きく言うたらなるかもしれません。 私はこの御教えは、本当にそういう意味でね、人間が人間らしゅう言うならば生きて、そして自由無碍の世界。おかげも自由自在というような、おかげの世界に入っていく前提としてです、私共が今まで観念としておった観念をふり捨てて、日柄もなければ方位もない。ね。お天気、例えばほんぞら温かいというふうに言っとられますね。まあ、自分に都合のよい日が良い日じゃとおっしゃっておられます。だからすべてを自分の都合のよい日として頂ける信心内容を頂いていくという事なんです。
私共が、私が言う人間が人間らしゅう生き方という事をです、信心によって体得さして頂きますと、そういうマナ-が付いてまいりますと、ずいぶん楽で有難い、勿体ないです。それと、私共の信心の無かった時代の事を思うてみるともう、実にお粗末であり御無礼である生き方ばっかりしてきております。ね。中にはさなざまな悪い事もしてきております。けれどもね、この神様はそういう、例えば過去を持っておるなら私としてもええ、そういうよくない過去を持っておる私でも、私が一度心を神様にむけて、そして過去の事を詫びる。本気で詫びそして本気で改まるという気になったら、もう許してやりたいのが親心とおっしゃるから、こげなすばらしい事はないです。だから信心とは、過去のすべてが生きてくるのです。ね。そういうよくない事をしておったおかげで、今日の難儀があるとするならば、その難儀のおかげで神様を知ったし、信心が分かったというのですから、過去が生きてくるわけです。過去のすべてを言うならば、どういう事でも生かしていけれる手立てが、私は金光大神の御教えであり、合楽理念はそこん所を誰んでも分かるように説いてあるんだと思うんです。そして、これからはと言う信心です。ね。これからは大変窮屈なって、もう信心になったら酒も飲まれんか、肉も食べられんかと、女も抱かれんかといったような事ではないのである。ね。そこに人間が人間らしゅう生きながら、しかも身に徳を受けていけれる手立てが、私は合楽理念だと思うです。ね。
詫びれば許してやりたいのが親心。そうでしょうね。そこに改まりがある。そこから本当の信心生活。なら本当の信心生活というのは厳しい戒律の中には入ってしまわなければならんかというと、そうではない。もうそれこそ、自由な心。とにかく今日、日々を有難い勿体ないで通していけれる手立てがある。お肉を食べてもよい、お魚を食べてもよい。ね、好きならお酒を飲んでもよい。ただし取りすぎてはいけないよとは教えてありますけどね。そういう生き方をいよいよ身につけてまいりませんと、金光大神の教えを頂いておるという値打ちがない。信心を頂いておっても、自分で自分の心、体をしばるようにね。 日柄がよいの悪いのと言うとったら、それだけ自分の世界をせまくするわけなんです。
 昨日私は、有難いと思うのは、最近久富先生の所の家族の者が、えらい信心になっていくんです。昨日、一昨日も兄弟で、お母さんが急に具合が悪くなったというて兄弟でお願いに来た。昨日は又、兄弟でおかげを頂いたからと言うてお礼に出て来た。もう先生が亡くなって、後をとっておる一番下の康男さんと言うのが大工をしています。もう二軒家を建てて、二軒目を今度建てる事になる。とにかく御 が働いておると言わにゃおられんというわけ。ね。亡くなってすぐの時分に、あのう地鎮祭をしてくれと言うて、昨日も又、今度まあ建てる家の地鎮祭をお願いします。そして今度、五十日祭が近づいてまいっとりますから、五十日祭のお祭りをどういうふうにと言うて、昨日の若先生が申しておりましたが、もう本当に行き届いた考え方を託して、こういうふうにしたいと思いますというてお届けをして帰ったという事です。ね。大工ですから、言うなら地鎮祭をするでもいろいろな、今までは縁起をかついでおった。ところがもう金光様の信心によって、この地鎮祭をして頂いて御理解を頂いてからこの方というものは、もう今まで、そげなこつは迷信ですがと、その尋ねません。でも話しが出けるようになった。私げにゃ金光様で祓うちもらうけんで、これが一番有難いですよと言うて、なら金光様でお祓いをして下さいと言ったような、おかげにだんだんあってきておるという事。有難いですよね、もう本当に家を一軒建てるでも、それこそ家相が吉いの悪いのと、それこそ人間の詮索した一つの学問のようなものになるでしょう。こう系統だって昜学なんかという学がある位ですから。だから、けれども人間がですね教祖の御教えに基づいた、言うなら教の昔に得る、いろんな教えがこう沢山出けた。けどもその昔に還えらせて頂くというのが全教の信心なんです。だから、私が前代未聞の宗教であるね。というふうに、まあ申しますのです。そういう有難い、それこそ和道十全の道を教えて頂くのですから、それを自分の身につけていかなかったら、こんなに勿体ない話しやない。だけではない。例えば日柄の方位のという事は、天地に対する所の墨かね、つけるようなもんですからかえって御無礼になるという事です。ね。だから、そういう御無礼を平気でしておって、それが前々のめぐりとなって難を受けおるとも教えておられますように、お道の信心させて頂いたら、その辺の所がすっきりしてね、それこそ日のお照らしなさる吉い凶いは言わないと思え。これはお天気だけの事だはない。吉い凶いはないと思えというような大らかな信心ですね。それを身につけなければ、なら信心を頂いてもやっぱり  狭い事を言うたり、迷信にこだわったらおかげが受けられんといった事になりますですね。
 私は今日の御理解は、人間が人間らしゅう生きるその根本の所をね、教えておられると思うんです。
どうぞ